i-modellers 2号フェアディナント ドラゴン 1/35

ニコポリの東 1943年12月
  フェアディナント ドラゴン 1/35

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p7.jpgp7.jpg同じ車体(エンジンの搭載位置などは異なりますが)を使用したポルシェ・ティーガー、第653重戦車駆逐大隊へ 大隊本部の指揮車両として1台だけ配備され、44年春ころから夏まで東部戦線で行動しました。ドニエプロペトロフスクでの記録ではこの時点での大隊(653大隊)の保有車両は50両となっていますが、39+50は89でしかないので、記録はこの時点でも数字が正確でないのが残念ではあります。(1両多かったり少なかったりするのはなぜなのでしょうね?)

43年11月1日、大隊へは3号戦車車台弾薬運搬車5両とベルゲパンター2両、ベルゲフェアディナント3両(実際は9月には部隊にあった)が配備されました。
大隊はドニエプロペトロフスクでの補修作業を9月初めには終え、9月10日から10月13日まではドニエプルをさらに下ってサポロジェ橋頭堡の守備に追われていました(サポロジェには巨大なダムがあり、戦闘の焦点となりました、この辺の様相はカレルの著作に詳しいですが、巨大な対戦車自走砲が重宝された、と語られています)。
11月にはニコポリ周辺でドニエプル川最後の戦いが繰り広げられますが、11月29日ついに後退し、オーバーホールすべく命令が出ました。
12月中ニコポリから西へ撤退し、オーストリアで車両の整備と改修を受けることになりますが、実際にはクリスマス頃までニコポリ橋頭堡やサポロジェの北西部で戦闘に携わっていました。
後退戦の期間を通じてフェアディナントは火消しにひっぱりだこの状態であり、劣勢の中、扱いにくい車両をよく守り戦ったといえます。このころのものと思われる写真にはパンターD型とおぼしき車両と一緒のところがあり、ともに高い評価ではなかった初陣の両者が後退戦を戦った姿が感慨深いです・・・

フェアディナントが再び東部戦線へ戻るのは44年春になります、見慣れた姿を一部変更し、名前も新しいものになっていました。

作例は7月以降の激戦をくぐり抜け、なお大波のように押し寄せるソ連軍装甲部隊に立ち向かった、この希有な車両の姿を模型に反映してみたいと思います。

p8.jpg参考資料:「第653重戦車駆逐大隊戦闘記録集」「ヤークトパンター戦車隊戦闘記録集」「重駆逐戦車」いずれも大日本絵画、
「焦土作戦」小学館など

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製作に際し、足回りの転輪、起動輪などを組立て、まず車体の勘合をみます。
フェアディナントのキットは2002年に発売になったエレファントがベースになっていますが、その頃からの問題点が何箇所かあるものの、概ね各部の合いは良好です。
車体上部の戦闘室はこれで一発抜きのもの、すごいですネ。
下部車体は少しだけ内側にたわみが生じていますが、取り立てて修正しなければならないほどのものではありませんでした。
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車体の組み立てで注意するのは後部に近い側面のパーツの合いが少々悪いこと、そのまま組むと青矢印の部分に隙間が生じますので、赤矢印の部分で内側を少し削り全体の位置を合わせます。
この際黄矢印の箇所に隙間が生じますが、これは接着剤で十分に固定することでほぼOK、また黄矢印の周辺に見えている装甲板の組み継ぎの溶接痕はキサゲで彫り直しました。
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前面装甲板から機関部にかけてのパーツを組んでいったところ。
各パーツの合いは問題ありませんが、ボルト止めされている装甲板の裏側(接着面)は一度ペーパーを当てて平面を出しておくときちんと接着面が付きます。
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このキットの問題点のその2、は機関部のパーツを車体に接着すると中央部分(矢印)でほんの少しですが、沈みます。
ここをこのままにしておくと戦闘室を載せたときに矢印の位置で少しですが隙間が生じますので、プラ棒をかませて沈み込みを防いでおきます

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