The Memory ティフォシの熱狂
F126C2 フジミ 1/20
制作・写真・文章 moppu
最初に
i-modellers第3号の特集はフェラーリ。
普段ほとんどAFV(装甲戦闘車両、戦車とか軍用車両)しか作らない私は編集部内で決まった特集のお題を聴いて、一瞬気が遠くなりました。模型製作を再開した10年くらい前から2、3年の間はいろんなプラモを作っていました、クルマのキットもその時に手掛けていたのでしたが、カーモデルというアイテムはどうしてもピカピカに仕上げることができず、自分には合わない、と結論し、以後一切手掛けていない分野でしたのです、はっきりいって苦手、であります(笑)
しかしながら、飛行機キットも艦船も挑戦してみたいと願ってやまない、脱偏向モデラーとしてはこうした機会でもないとほとんど手掛けないお題でもあります、折角ご覧頂いてもなんの参考にもならん(!)とは自戒しますが、ま、そもそもが反面教師モデラーであります、なんとかフィニッシュまでこぎつけるかどうか、お見守りを頂ければ幸いです。
フェラーリF126C2について
前年フェラーリ初めてのターボエンジンを搭載したF126CKの不成功から1982年シーズンフェラーリはハーベイ・ポストレスウェイト(最近はポスルスウェイトと表記するみたいですが)をデザイナーに迎え、結果的にウィング・カー時代最後のマシンとなった126C2をヴィルヌーヴ、ピローニという2人のドライバーに与えました。2年(80年312T5、81年126CK)続いた不振から126C2は戦闘力を取り戻し(結果的にはこの年コンストラクターズタイトルを得ました)、ヴィルヌーヴの初タイトルも夢ではないシーズンと思われましたが、ヴィルヌーヴは第5戦ベルギーGP予選中にクラッシュし死亡、ピローニは第12戦ドイツGP予選中にやはりクラッシュし両足複雑骨折という負傷でF1のキャリアを終えることになりました。
ヴィルヌーヴは1977年F1デビュー、シーズン終盤に引退したニキ・ラウダ(後復帰し、アラン・プロストとTAGマクラーレンで大暴れします)に代わりフェラーリ入りし、日本GPではロニー・ピーターソンのタイレル(昔はティレル、なんて言わなかったんですよね)に追突し、観客を巻き込む死亡事故を起こしました(翌年から日本GPは中止となり、鈴鹿で再開されるまでお預けとなりました、当時、F1のテレビ中継なんてなく、ときどき総集編みたいなものを年に数回やってましたっけ、ネットなんてもちろんない時代、情報はモータースポーツ専門誌を買う以外になかったのでした、思い返せば懐かしい時代であります)、翌年からF1フル参戦、79年にはチームメイトだったジョディ・シェクターがチャンピオンを獲得、80年にシェクターが引退し、やっとファースト・ドライバーとして、ヴィルヌーヴの時代がくると思われました。
81年にはモナコ、スペインと2勝はあげたものの決していいシーズンではありませんでした、今年こそは、というティフォシの期待をよそに、82年は暗黒の年となってしまいました。
ある意味フェラーリにとっては悲劇のマシンということができるでしょうか。
ウィング・カーはマシンのボディ全体を飛行機の翼断面を逆さにした形状とすることによってダウンフォースを得、路面にマシンを抑えつける、という構造をもっていました、ヴェンチュリカーなどとも呼ばれていました。結果的に低速サーキット以外ではフロントウィングが不要になるほどのダウンフォースをもたらしたマシン形状はしかし、いったん正常な姿勢を失うとマシンが簡単に中に舞い上がってしまうような危険性をもあわせもっていました。
(F1ではありませんが、ル・マンのユノ・ディエールで舞い上がったマシンなどもありました、シケインが出来る前のコースでしたが、衝撃的な映像でした、当時の映像は映画などにもなってクラッシュシーンだけはよくテレビなどでも取り上げられましたね)
ヴィルヌーヴ、ピローニの事故は両方とも前走車の後輪に自車の前輪を接触させた(乗り上げるような形でタイアの回転方向の影響によって当たり方が悪いと跳ねあげられる格好になった)結果マシンが飛び、重大な結果をもたらしたものでした。(余談ですが、ピローニが追突したヨッヘン・マスはジェームス・ハントがマクラーレンでタイトルを獲得したときのセカンド・ドライバーで、渋いいいドライバーでした。ピローニもタイレルをドライブしていたころは速いドライバーで、後にジャン・アレジがフェラーリ入りしたときにはピローニを思い出したものです、白状すると当時私はヴィルヌーヴよりもピローニファンでした)
この年を最後にウィング・カーは禁止され、いわゆるフラットボトム規制が現在まで続くことになります。結果的にヴィルヌーヴがF1をドライブした期間はウィング・カーの全盛期に重なっているともいえましょうか。
近年のF1マシンの多くが車体の各部に小さな空力パーツを沢山付けてすこしでもダウンフォースを獲得しようとしているのとは対照的に80年前後のマシンはとても小さなウィングを装着しているだけでした。フェラーリ60有余年のF1参戦の歴史の中でエンツォにもっとも愛されたというドライバー、ヴィルヌーヴの最後のマシン、決して栄光に彩られたマシンではありませんでしたが、スクーデリア・フェラーリを語る上で欠かせない、追憶の一台です。
キットの内容
フジミの1/20F1のキットは初めての製作ですので、他と比べて、ということができませんが、パーツ数も適度でまずまずの印象です。ディテールの再現、という面ではスリットなどのモールドが繊細さに欠けるなど本来薄いところがかなり厚いのが気になります。
フジミにとっても初めてのF1マシンのキット化だったといいます、よくぞこのマシンを、といまさらながら思います。
シートベルトは何らのパーツもありませんので、アフターパーツでディテールを追加してみたいところです。キットはピローニのマシンとして組む場合はフロントウィングを付ける選択肢がありますが、よりウィングカーらしい形態としてフロントウィングのない箱絵のマシンとして作ってみることにします。
ところで27番、というマシンナンバーですが、当時のF1は前年のチャンピオンが1を(そのチームメイトが2)、前々年のチャンピオンマシンが11を付けた以外はチームごとに決まっていて、タイレルは3、4、ロータスは5、6などとなっていました。フェラーリは27、28で、27番はスクーデリアのエースナンバーだったのです。
現代のF1はそういう決まりがなくなってしまい、オールドファンにとっては少しさびしい気がしますが歴代の27番マシンを並べることができると楽しいでしょうね。